ようやく読了。

意識と本質―精神的東洋を索めて

意識と本質―精神的東洋を索めて

この本は、いろいろな宗教、いろいろな思想、いろいろな哲学、言語学や心理学・・・、それぞれの立場から「意識」や「本質」というものの捉え方を論じていく。
さまざまな「本質」へのアプローチが論じられている中で、『禅』について書かれている部分が1番印象的だった。西洋哲学の持つ(有的「本質」)の捉え方より、東洋哲学、中でも『禅』の持つ(無的「本質」)の捉え方に魅力を感じ共感できたという事は、やはり自分は東洋の人間だという証なのかな〜。
印象的な禅の説明をちょっと書いてみる。

人間は喋っているうちに、意識しないで、習慣の力で、つい自分の喋る言語の意味的枠組に従ってものを見、ものを考えるようになっていく。禅から見れば、人間はこの意味で言葉の奴隷です。自由に"なま"の、無制約の「現実」に触れることなど到底できないのです。自分の生まれついた言語によって規定された線に従って考え、行動するだけです。

このような言語によって決定された意味的範疇の枠組から抜け出すことが、禅ではまず第一にやらなければならないことである。

そのように言語的区分けが取り払われたところに現れてくる「現実」は完全な形而上的無限定者でなければなりません。それを禅では「空」とか「無」とか申します。これが禅の修業の第一段階であります。

座禅とは、言語的に言うと、まさに言語否定への修行方法です。深い観想のうちに、言語分節の蹤跡が消え去り、あらゆる事物の"無"が体験されるとき、はじめて歪曲されぬ「現実」が顕現するという考えです。老子の表現を借りれば「無名」です。
しかしながら、この「無名」の境地が禅の究極とするところではないことにもまた注意する必要がある。

要するに最終的には言語的世界に戻らなければならないんだけど、その世界は本質的に異なる言語的世界になっているという事になる。
禅の流れを分かりやすく表すと『分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)』ということになる。